学部長便り2010年12月号

公開日 2012年09月04日

「学部長、大江健三郎に会いに行く」の巻

 
学内にも落ち葉の目立つ季節となってまいりましたが、みなさんお元気でしょうか。さて今月の話題は何と言っても大江健三郎です。

さる11月10日、ノーベル賞作家の大江健三郎さんが松江に来られました。大江さんが松江に来るのは16年ぶりだそうですが、実はその時、私の妻が武家屋敷の所で大江さんをたまたま見かけ、パチリと一枚、写真を撮らしていただいたという事件があったのです。それで私も、16年前に彼が来たことを覚えていました。今回は、島根県の高校国語教員の会が記念イベントして講演を依頼し、快諾していただいたとのことでした。そこで、講演の前日の夜、大江さんを囲んでの歓迎会に私も呼ばれて参加したというわけです。

大江さんに関しては、もちろん小説を読んでいるにとどまらず、大学の講義でもしばしばテキストにしているので、本人と話をするというのは、緊張半分、好奇心半分、つまりドキドキものでした。しかし、まず驚いたのは、とにかく饒舌な人であるということでした。学生時代の教育実習体験談、過去の松江での講演のこと、ノーベル文学賞について、広島の原爆の話題、アメリカ滞在の思い出、今執筆している小説について。とにかく次から次へと話題は移り、ほとんど会話はたえません。親友であった故井上ひさしさんの喪に服しているということで、お酒は抜きの、夕食会だったのですが、出てくる豪華な料理にはほとんど箸をおつけにならず、ただひたすら話し続けておられました。ご本人曰く、私は話をするのが好き、とのことでした。

なかでも印象的だったのは、現在は自分の死を常に考えているというお話でした。おそらく、現在書き続けている小説が、自分の最後の小説になるだろう。これまでたくさん小説を書いてきたが、決して自分では満足がいかない。最後ぐらいよい作品を書きたいのだが、今度も無理かもしれませんねえ。私に比べるなら、今度ノーベル文学賞を受賞したペルーの作家バルガス・リョサ、彼の小説は本当に素晴らしいのですよ、と語られるのです。それは単なる謙遜ではなく、心の底からそう思っているという切実なものでした。

私は、小説家を志し、水準以上の作品を残しながら、しかし結局夢破れて小説家をあきらめたという多くの人たちと出会いました。その中の少なからぬ人たちが、同世代の大江健三郎の才能に打ちのめされたのです。しかしその憧憬と嫉妬の対象である当のご本人は、やはりお嘆きになるのです。「いやぁ、小説を書くコツが未だにうまくつかめないんですよ」。

松江の三時間の夕食会は、あっという間に終わりを迎え、結局大江さんは、最後に出された「鯛茶漬け」だけを「うまいうまい」と言いながら食されたのでした。