学部長便り2011年7月号

公開日 2012年09月04日

7月号 「忘却」と「読書」

私の専門は日本近代文学、平たく言うなら小説や詩について研究することです。それゆえ仕事上でも趣味でも、昔からたくさんの本を読んできました。次から次へと読書をし、読み終えた本は、記憶の倉庫にしまわれてゆくということになります。ところが最近になって、思わぬ楽しみができました。何かというと、読んだ本の内容をきれいさっぱり忘れてしまっているがため、同じ本を白紙の状態でもう一度読めるということです。この間、アメリカの作家ポール・オースターの小説を買って読みました。やはりポール・オースターは面白いぞ、と100頁ほど読み進めた時に、何か既視感が生じたのです。どこかで読んだ内容に似ているぞというものです。これはもしかしたら一度読んだことがあるのではないか、とも思い始めました。そこで書棚を調べてみると、同じ本があるではありませんか。「あーあ、同じ本二冊買っちゃった」という事です。

しかしこれなどは途中で気づくだけまだましです。私はミステリーも好きでたくさん読むのですが。中には、事件の経緯も犯人も全く忘れている作品もあるのです。しかし、同じミステリーを二度読めるというのはいいものです。きっと一度目の時は犯人を推理できなかったに違いないのです。だから今回は犯人をあてるぞ、と意気込んで読めるわけです。十代、二十代に一度読んだきりの小説などは、その多くがほとんど内容を忘れています。だから初めてのように読めるわけです。

今年、わたしのゼミの男子学生が福永武彦の「忘却の河」という作品で卒業論文を書くことに決めました。福永武彦で卒論を書く学生は初めてです。彼に福永武彦を紹介したのは私ですが、その後「忘却の河」の内容を、まったく覚えていないことに気づきました。主人公のことも、どのような描写があるかも、本当に見事なくらい何も思い出せません。ここまで覚えていないのは希有な例です。ひょっとしたら読んでいないのではないかとさせ思えてしまいます。しかし、三十年ほど前に読んだのは確かなのです。だから、今とても楽しいのです。「忘却の河」を、初めて読む読者のように、ドキドキしながら読めるのです。今度の出張では、新幹線で「忘却の河」を読もうと思っています。

学生達にこの話をしたところ、先生それを世間では耄碌というのですよと指摘されました。違います。耄碌ではありません。年齢という時間がもたらした美しい忘却なのです。