学部長便り2012年9月号

公開日 2012年09月20日

猫の名前

 村上春樹の『羊をめぐる冒険』の中で、「猫の名前」に関する素敵な逸話が登場します。作品は、広告関係の仕事をする「僕」が、右翼の大物から妙な調査を依頼されたことから動き出します。右翼の大物の屋敷に出向く時には、必ず専用車で送迎してくれるのですが、その運転手がなかなかユニークな人物なのです。ある時、車中で「僕」の飼っている猫の事が話題になります。「僕」は、長年飼っているその猫に名前を付けていないのですが、それを聞いて運転手は「じゃあいつもなんて呼ぶんですか?」と質問するのです。以下、次のように会話は進みます。

「呼ばないんだ」と僕は言った。「ただ存在してるんだよ」
「でもじっとしてるんじゃなくてある意志をもって動くわけでしょ?意志をもって動くものに名前がないというのはどうも変な気がするな」
「鰯(いわし)だって意志を持って動いているけど、誰も名前なんてつけないよ」
「だって鰯と人間のあいだにはまず気持の交流はありませんし、だいたい自分の名前が呼ばれたって理解できませんよ」

 なぜ「僕」は飼い猫に名前をつけないのか。猫と鰯は同じなのか。それらの問題について答えが出されるわけではありません。ただ、一連の会話の果てに、運転手は「どうでしょう、私が勝手に名前をつけちゃっていいでしょうか」と提案し、「僕」はそれを承諾します。そして、今まで「いわし」同然の扱いを受けてきたという理由で、運転手は「いわし」と命名するのです。「僕」も、同乗していた「僕」の彼女も、なぜかその名前が気に入ります。彼女は「悪くないわ」「なんだか天地創造みたいね」と言い、それを受けて「僕」は「ここにいわしあれ」と言うのです。

 この逸話から私は二つのことがらに思いをめぐらせます。一つは、この作品では「僕」も「彼女」も「運転手」も「右翼の大物」も、誰一人名前が記されないのに、なぜ猫は命名されるのかということです。名前あるいは固有名詞の問題です。そして、もう一つは、文学史上最も有名な「名前の無い猫」についてです。そう、夏目漱石の『吾輩は猫である』に登場する猫の事です。なぜあの猫には名前が無いのか。そして作品は、なぜその事から書き始められているのかということですね。

 実は私も猫を二匹飼っています。ちゃんと名前はありますよ。「マオ」と「メオ」です。しかし、「マオ」は中国語で「猫」、「メオ」はベトナム語で「猫」。それなら、「猫」に「猫」という名前を付けているに過ぎないのかもしれませんね。

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