学部長便り2019年5月号  松江・真山の謎?(その1)

公開日 2019年05月23日

 

連休の間遠出は避け、松江市の北にある真山(しんやま)に登りました。私の家から近いので、登り口までは自転車で行きます。標高256メートル、ちょっとした運動には最適の山です。

さて中腹まで行くと、突然、墓と灯籠が現れます。墓にはこう書かれています。
「相木盛之助・更科姫墓」。この2人、一体誰なのでしょう?
ヒントは、この真山が、中世において、尼子氏と所縁の深い山であったという点です。
それにしても、尼子の家臣で、相木などという人はいなかったはず……。
答えは歴史ではなく、文学の中にあります。

江戸時代の終わり、181121年頃、栗杖亭鬼卵(りつじょうていきらん)という作者が、『絵本更科草紙』(えほんさらしなぞうし)という小説を刊行しました。
相木森之助と更科姫は、この小説に登場する人物です(小説では「森之助」と表記。以下これに従います)。
――信州の村上家の家臣・相木森之助は、武芸達者で頭も良い人でした。彼は徹底した平和主義者で、わざと臆病を装って周囲との争いを避けたり、持ち前の徳によって領民を治めたりと、とても魅力的な人物でした。更科姫は、同じ村上家中の家老の娘で、容貌すぐれ、そのうえ武芸もできたとされます。この両人が夫婦になり、生まれたのが、山中鹿之助であったというのです(歴史上の人物としては鹿介と書くべきですが、小説での表記に従います)。

何だか少しややこしくなってきました。墓の主は、夫婦で、ともに信州の人。その子が山中鹿之助だと……??
しかし、山中鹿之助は、出雲国生まれで、主君尼子氏のために生涯を捧げたとされているのではなかったのでしょうか?

確かにこの真山は、山中鹿之助が毛利氏と戦うにあたって砦(とりで)とした地。何となく話は繋がりそうではありますが。
そのあたりのことは、次回改めて整理することにしましょう。

さて、山頂に辿り着くと、小鳥の鳴き声が聞こえ、初夏の爽やかな風が吹き抜けていました。
ここからは宍道湖と、その彼方に広がる山々が一望できます。きっと鹿之助も見た景色なのでしょう。
あまりの心地よさに、思わず麓に向かって大きく手を振ってしまいました。

      
相木盛(森)之助と更科姫の墓    真山の頂上から宍道湖方面を望む

 

 

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