学部長便り2019年6月号  松江・真山の謎?(その2)

公開日 2019年07月02日


松江市の北にある真山(しんやま)と山中鹿之助の話の続きです。

江戸時代の終わり頃に出た小説『絵本更科草紙』(えほんさらしなぞうし)では、信州の村上家の家臣に相木森之助という大変すぐれた人物がいて、彼が更科姫と結婚し、鹿之助が生まれたとしています。
さて鹿之助は健やかに成長し、やがて、「自分の目標は、戦乱を終わらせて世に安穏をもたらし人民を救うことです」と両親に向かって宣言し、一人武芸鍛錬の旅に出て行きます。

ところがこのあと、京都の地主神社で、ある公家の美しき姫の姿を見るや呆然となってしまい、何も手に着かず武芸鍛錬どころではなくなってしまいます。自分を立て直そうと懸命にもがくものの、どうにもなりません。
結局その後彼は、めでたくこの姫と結ばれます。そして姫の姉が、出雲の尼子義久の奥方となっていた縁で、尼子家に仕官することになります。作者は、鹿之助は自分の抱いてきた「安穏の世」の実現という目標を実現する場(自分の活躍の舞台)として尼子家を選んだのである、と説明しています。
つまり鹿之助は、自分で尼子家に決めて「就職」したわけです。

これは、山中鹿之助は生まれながら尼子の家臣であり、その関係は運命的に定められていたという、一般的な理解とは随分違うものです。

作者がこのような設定をしたことによって、この小説で鹿之助は、自分の意思に従って自由奔放に行動する人というキャラクターを与えられることとなりました。
隣国の山名氏の狼藉を抑えるにも、主君義久の意向を伺うことなく、自分の一存で相手方へ乗り込み、最後は「徳」によって心服させてしまいます。
尼子氏が毛利氏に攻められ危機に陥った際も、知恵を用いて幕府の実力者たちを味方に付け、戦闘を回避して安寧を保ちます。
そして彼のこうした人間的魅力に惹きつけられて、「尼子十勇士」と呼ばれる家来たちが次々集まってきます。

『絵本更科草紙』に登場するこのような鹿之助は、読者に大いに支持されたと見られ、明治以降も、これのアレンジ版が続々刊行され、また講談にも取り入れられています。
あの、忠義一徹の士という人物像は、戦中の学校教育との関係の中で濃厚になっていったものであったと思われます。

先月ご紹介したように、真山の中腹に、相木森之助と更科姫の墓があります。建てられたのは、昭和2年(192711月とあり、4名の有志の人々の名が刻まれています。
『絵本更科草紙』かそのアレンジ版を読んで魅了された人々なのでしょう。それにしても、そこから登場人物の墓まで建ててしまうとは……。

歴史上の山中鹿之助(鹿介)は一人です。ただ、こうして小説の中で生き、江戸時代終わりから近代の読者たちの心を大きく揺さぶり続けた、もう一人の鹿之助がいたのです。

 
相木森之助と更科姫の墓      登山道には可憐な草花も
 「昭和二年十一月建之」

 

 

 

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