学部長便り2019年8月号  中村元と増田渉(その2)

公開日 2019年08月26日

講演会「山陰が生んだ知識人たち―中村元と増田渉―」の報告の続きです。後半は、法文学部の内藤忠和准教授(中国文学)による、「日本文人の上海体験―増田渉と魯迅を中心に―」の講演でした。

増田渉(ますだわたる、1903-1977)は、魯迅研究の第一人者として知られる中国文学者です。現在の松江市鹿島町に生まれ、旧制松江高等学校(島根大学の前身)を経て東京帝国大学へ進み、松江高等学校・島根大学の教授や島根大学附属図書館の初代館長などを務めました。

講演の中で紹介された、増田が松江高等学校在学中に、同校の『校友会誌』に発表した「鐘情人一心合墓」は、中国明代の怪異小説集『剪灯新話』(せんとうしんわ)に収める「翆翆伝」(すいすいでん)の翻訳ですが、結末部分が大幅に改変されているそうです。若い時分から中国文学に強い関心を持って、独自の読み込みをしていた可能性があります。

19313月、増田は上海へ渡ります。それ以前から上海は「魔都」のイメージで語られ、市内に存在した租界と呼ばれる地区には、諸外国から様々な人たちが集まったこともあって、比較的言論の自由が保たれていた。こうして上海には、中国現代文学の文壇が形成されていった。芥川龍之介、谷崎潤一郎、金子光晴らは、こうした上海を訪ねてそこに身を置き、あるいは文壇との交流を経験したのだそうです。

しかし増田と魯迅との交流は、これとは趣を異にするものであった。魯迅は当時弟子が弾圧を受けており、自身も危険を感じて外出も思うようにならなかった。増田は魯迅の家に10ヶ月間も通い、魯迅の著『中国小説史略』(1924年)について、個人教授を受けたのです。毎日、約34時間にわたり、字句の解釈のみならず内容にまで踏み込んで徹底的に質問して教えを受けたといいます。
増田は帰国後も、疑問点について魯迅に手紙で質問し、1935年に『中国小説史略』の日本語完訳版を出版しました。
また増田は「私は魯迅に接して、彼の生きて来た異常な経験や、それとつながる苦難にみちた中国の現代史の知識を、じかに感得」したと記していることから、内藤先生は、増田は人としての魯迅に惹かれていったと見られる、と評されました。

増田が魯迅と出会って教授を受けた1931年は、満州事変の起こった年です。こうした時代情勢を考えるに、この師弟関係は他に類を見ないものであり、両者は、小説史研究という学術交流で結ばれていたと、内藤先生は述べられました。

人と人が出会って、共に学問を窮めようとすればするほど、相手の人格への共鳴が生まれてくる。魯迅と増田は、小説史の真理を窮めたいという意思を完全に共有していたのでしょう。増田渉の上海体験は、学問には「人と人を結ぶ力」があるということを、改めて私たちに教えてくえるものであったと思えます。


 法文学部・内藤忠和准教授による、
 増田渉と魯迅の交流に関する講演

 

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