学部長便り2020年3月号  江戸時代の文理融合―大森泰輔のこと―(その2)

公開日 2020年03月26日

60歳を過ぎた1833年、1834年の2度にわたり、紀州の華岡青洲の塾へ赴き、当時最先端の医術を学んだ大森泰輔。

彼は、実は絵の達人でした。師の青洲が行う手術を傍らで見ながら、丹念にリアルにスケッチし、自分のノートを残しました。アナログの超高精細画像です。前号で挙げた梶谷先生による伝記によると、彼は少年時代、絵師になることをめざしていたそうです。これも一種の文理融合と言えるかもしれません。

 

先に述べたように、泰輔は、「自然はもともと善なる性質を持ち、これが人の心に宿る。だから、人の心はもともと善なるものである」という思想を持っていました。

ではその「善」とは、どういうことなのでしょうか。

 

『道話雑記』の中でこう言っています。

 

平日孝弟にして五常の道を離れざれば、天理の本性に合す。

 

――平素から「孝弟」を保ち、五常(基本道徳)を離れなければ、天の理が人にの心に宿った「本性」に合致した生き方ができる。

少し難しい理屈に聞こえますが、おおよそ次のようなことを言おうとしています。

泰輔はまず「孝弟」を挙げています。「孝」は、子が親に尽くすこと、「弟」(悌とも書く)は、弟が兄に尽くすこと。しかし彼が考えているのは、単に下の者が上の者に奉仕するというような平板な意味ではありません。彼は別の文章で、「孝弟」とは「忠恕」、つまり、誠実に人を思い遣ることだと説明しています。そして、

 

(人が)孝弟を離れざるは、天地一体にして、これ一箇の小天地なり。

 

――人が「孝弟」(=忠恕)を離れることがないのは、もともと人は天地と一体で、一つの小天地だからである。

つまり、人間が、自分以外の人を誠実に思い遣るのは、教えられてそうするのではなく、もともと自然界に由来する性質によって、自ずとそうするのである。

そして、中国唐の時代の李勣(りせき)という人が姉を献身的に看病した逸話を挙げ、これは天地から授かった、人を愛し慈しむ心の働きによるものであると述べています。さらには、男女夫婦の情愛も、天地に由来するものだとしています。

 

自然界は人や物を大きく包み込み、生かし、慈しみ育てる。その自然界とつながる人間にも、その性質はそのまま受け継がれている。

 

こうして泰輔は、自分が自然とつながっていると意識することで、「楽しみ」を感じることができると考えました。

人間の心には、自然界の本質(「性」)が宿っている。だから自然の営みは、ダイレクトに心の中へ入ってきて、素直に共感できるのです。

 

朝な夕な目の前に満ちたる天地のしわざ、日月の明光、四時のめぐり、折々の景気、雲烟(かすみ)のたなびける、雪の清き、花のよそほひ、鳥獣虫魚のしわざ、ことごとく楽しみにあらずといふことなし。

 

このような考え方を元に、泰輔は「人間を重んず」という詩を詠んでいます(元は漢文体ですが読み下しで掲げます)。

 

日はこれ太陽の精 月は又太陰の精

人はその両精を合す 何ぞ過ちてこの身を軽んぜん

 

ここで言おうとしているのは、宇宙の最も純粋な精髄を賦与されて生まれてきた人間の尊さということです。――人間は自然界から生命を与えられ、同時に人を愛し慈しむという、心の本性を与えられている。あらゆる科学的探究は、このことを前提に行われなければならない。――泰輔の思想の中心には、このような考え方があった。

こうして、心学教訓としての泰輔と、華岡流医術を身につけた医師としての泰輔は、一つの像を結ぶように思われます。

 

さて私こと、3月末を以て2年の任期を終えることとなりました。この学部長Letter、最後までお読みいただき、ありがとうございました。愛読下さった方々から感想を寄せていただき、とても励みになりました。後任は丸橋充拓教授、専門は東洋史学です。これからも変わらず法文学部をよろしくお願いします。

 

           

         大森泰輔が絵の腕前をふるった師華岡青洲の肖像画

       

               『不明堂詩文妄作草稿』

               「人間を重んず」の詩(中央部分)

 

所蔵:島根大学附属図書館大森文庫
島根大学附属図書館デジタルアーカイブによる(画像の一部を省略した)。

https://da.lib.shimane-u.ac.jp/content/ja/search?collection_name=%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E6%96%87%E5%BA%AB

 

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